自然海塩の復活運動との出会い|工藤清敏さんの塩の話
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前回は、工藤清敏さんが学生時代の経験から、自分の食生活やミネラルについて学び始めた経緯を紹介しました。
今回は、その学びの中で出会った人と、自然海塩の復活運動に関わるようになった頃の話を紹介します。
学びの場で出会った、塩づくりに関わる人
図書館で本を読み、食について学ぶようになった工藤さん。その関心は、セミナーなどの学びの場へも広がっていきました。
マクロビオティックのことも勉強し、そうしたセミナーに参加しているうちに、「海の精」の社長で、『日本人には塩が足りない』という本を書いた村上譲顕氏に出会ったのです。「自然海塩復活運動」という、塩の運動をしていた人です。
研究として、塩づくりを続ける
インタビューでは、当時の日本の塩づくりについても話が及びます。
―― たしか当時日本での塩作りが禁止になったのですね。
はい。1972年に専売公社が塩田を撤廃して、日本人は精製塩しか摂れなくなった。作ることも禁止されてしまったのです。ですが、その時に何百人の仲間たちが「塩はすごく大切なのに精製塩しか摂れないのはおかしい。売るためではなく研究のために作らせてくれ」という運動が起きて、国と話し合って「研究として作るなら」ということで作るようになったのが「海の精」の元なのです。
編集部補足:上記は原著の表記をそのまま引用しています。制度上の背景には、1971年の「塩業近代化臨時措置法」と、それに伴う製塩方法の転換があります。「海の精」は、塩専売法による制限のもとで製塩研究を続け、特別な許可を受けて試験塩を会員に配付していた経緯を公式サイトで説明しています。
参考: 海の精「海の精について」、 海の精「ごあいさつ」
塩の研究会の活動に関わる
村上さんとの出会いを経て、工藤さん自身も研究会の活動に参加するようになります。
僕はその村上さんに「塩の研究会の事務局長をやってくれないか」と言われて、半分は勉強、半分は通信販売のプロジェクトを支えるという形で1年ほどやりました。
本やセミナーで学ぶことから、塩づくりに関わる人たちの活動を支えることへ。工藤さんと塩との関わりが、具体的な仕事へと広がった時期の話です。
掲載箇所:原著pp.5〜6より抜粋。引用部分と質問文以外の導入・見出し・説明・補足は、うまいもの研究所が構成しています。
次回予告:医療雑誌の編集長としての経験と、言葉の意味づけへの関心を紹介します。